表題の事件にこれから様々な犯人像が挙げられてくるであろう。既に「被害女性への一方的恨み(讀賣新聞)」説がある。表面的にはそうであるかも知れない。しかしおそらく決定的な動機を見つけ出されず、やがて遠い出来事となってゆくと思われる。この種の事件で挙げられる動機としては、一般的にE.Fromの「殺人動機の7つの分類パターン」が挙げられる。しかし犯行過程から見て、本事件は、現在の段階ではどのパターンにも属さない。ただ臭いで言うなら、川崎で生じた早朝の通学路で起きた小学生襲撃事件の犯人に共通する何かを感じる。この事件の犯人は、その場で自殺した。

さらに間違いを恐れず大胆に言うならそれとも違う。これまでに得られた情報を基にして表現するなら、今回事件の直近の動機は「(何もかも)うざったかった」の言葉で表現される事件ではないか。おそらく彼にとっては、日常生活の「(何もかもの)うざったさ」及びその解消の爆発行動ではなかったか。体内に蓄積された強烈な「うざったさ」感覚が、たまたま「被害女性による何か」によって一瞬に爆発し、その爆発の余震・余韻として、さらに「なんだ~? 文句あんのか~」となって続いたのではないか。

もちろんこの「うざったさ」の背後には、➀コロナ下のストレス生活、②生活する地域環境、③家族、④生育歴、⑤銃器所有、⑥将来展望、⑦5月という「月」などの問題が遠ー近、軽ー重等がさらに折り重なった因果的連鎖構造として存在すると想われる。

ともかくなぜ地域の中では恵まれた環境に育ちながら、高齢女性を「その時」執拗に追いかけまわし刺殺し、駆けつけた警察官を二人まで射殺し、なぜその後自身を川﨑事件の犯人のように自ら撃たなかったのか(自殺)、なぜ夜間屋外に出て犬に触れたのか、なぜ翌早朝まで投降しなかったのか等等。この一蓮の疑問に彼自身明確な答えを見いだせないのではないか。

さらに今後データが出てくるに伴い、読みが進むことになる。しかし言っておくが、この種の「うざったさ」感覚の事件(犯人も説明つかない、世間も了解・納得しずらい)事件が形を変え場所・地域を選ばず今後も出てくると思われる。既にその予徴は表れている。

現在、前に述べたこの事件に先立って生じた「長野・低学年の男子児童に黄色の液体かけ逃走…小学校の敷地に侵入」事件現場実査の後、引きつづいて本事件の長野・中野市にも赴き現場を歩き、先に述べた「(何もかも)うざったかった因果連鎖構造)の図を画いてみるよう時間を調整中である(最近のもの凄い時間切迫の中でその時間が取れるか)。

最期に強調しておきたい。長野はたいへん好きな土地で(私の両親も大好き。ほんの2週間前、たまたま上田・小諸に赴いていた)、そこに大学時代からの大切な友人女性が生活している。長野は私の故郷とも思い定めている大切な大地であることを強調しておきたい。
(文責 清永奈穂                2023/05/27)