2020年4月12日にも述べたが、ピンチはチャンスである。このコロナウイルス禍のピンチは、今世紀最初にして最後の「日本社会の構造的枠組み組み替え」のチャンスでなかろうか。

第2次大戦後日本は、それまでに得ていた「敗戦」という事実の前に全てを失った。敗戦とはそう言うものである。しかし「失う」というピンチによって、しがらみのない「代替わりした若い世代」による政治・経済・行政・文化が創造され活力を振るうことが可能であったのではないか。それが「もはや戦後ではない」から始まり「高度経済成長期」から「成熟社会」を生み出し、わずか80年の間に「日本ルネサンスの時代」を作ったと考えられる。この間80年、長いが短い。短いが長い。80年の「覚悟」の気があり、やれば80年でできる。

日本という国は、外からの刺激(よく言う外圧)によるしか「内部の構造的組み替え」が果たされない国かも知れない。
そうであるなら、ウイルス禍以前からそうであった「日本の行き詰まり現象(私の見るところでは原発崩壊と1000兆円借金に全てが収斂する絶望的幾つもの解決困難な政治的経済的問題)」を今こそ、ウイルス禍という外部(マイクロ社会)からの侵害をテコに、切り捨てすくい上げ、前に進む時なのではないか。

教育問題に焦点を当ててみる

例えば「9月学期始め案」。良い悪いはいわない。ただ必要だとは思う。「そうしたいと若い世代」が声を上げるならそれに従い任せよう。邪魔はしない。ただそうするなら彼らに「責任を取る覚悟」を背負って進んでもらいたい。口先世代に陥るな。今そうでない言説・振る舞いをする老若(心老いた者たち)が多すぎる。それには、正直飽きた。

「9月学期始め」をいうなら、ついでに「多すぎる休日・祭日整理案」にも若い世代の君たちに手をつけてもらいたい。もっと「勉強する時間が欲しい」「真摯に幅広く手に技をつける時間が欲しい」といってもらいたい。SONYやHONDAの始まりはそうであった。訳の分からない、ただ休めるからラッキーという「休日・祭日論」は不要だ。君たちが勉強するために必要だというなら残せる休日は残せば良い。「日本の伝統的文化行事だから残す」など考えなくともよい。その決定は君たちに任せる。

さらにいうなら「アルバイトをせねば東京で学生生活を過ごせない(アルバ優先勉学後進)」「そうでなければ将来の就職も得られない」などという情けない社会システム(学・職・住連携社会)も厳しく診断・切り捨ててもらいたい。いってみれば大きな視野から、この際、これまでの学歴社会(学歴による地位分配社会。今や学歴幻想階層・階級化社会)を見直してもらいたい。これは日本社会を根本から組み替えることにつながろう。

18才、選挙権を持つ。君たちは主権を持つ。若い世代の君たちに80年後を任せる。期待する。心老いる無かれ。
(文責    清永賢二      2020・04・30)