登戸事件を踏まえ政府(その行政的体現機関である文科省)が来年度予算(案)という形で表した対策は、以下の様であった(NHK2019/08/24)。

地域の見守りの指導役として警察官のOBなどに委嘱している「スクールガード・リーダー」を2倍以上に増員するなど登下校時も含めた学校の安全強化策を来年度予算案の概算要求に盛り込むことになりました。(途中略)。こうしたことを受けて文部科学省は、地域の見守りの指導役として教育委員会が警察官のOBなどに委嘱している「スクールガード・リーダー」を今のおよそ1500人から2倍以上の4000人に増員する費用など登下校時も含めた学校の安全強化策として来年度予算案の概算要求に13億5600万円を盛り込むことになりました。

一般的に政策評価には、①効果・効率性、②実現性、③(政策の)持続性の3つの眼(尺度)がある。

文科省が今回採用した「スクールガード強化策」は、過去の歴史からみて③の実現性は満たす。既にやられている。

しかし考えてもらいたい。

全国の学校に張り付くほどの退職警察官が地域で生活しているか。彼らの多くは退職しても第2の職場にいるはずだ。住んでいても東京や大阪などにかなり片寄っている(大雑把にいっても全国警察職員25万人の内の4万人は東京・警視庁職員。そのうちのかなりの人間は埼玉や茨城県から通い、退職後も同地に住まっているはずだ)。

退職警察官が張り付くなどにあまり多くの期待は寄せられない。「何でも警察官」というのはそろそろ卒業した方がよい。彼らも現役時代ヘトヘトになりながら、ようやく退職にこぎつけたのだから。

そこで文科省予算(案)では、「退職警察官など」と「など」を入れて退職警察官以外の者の「スクールガード要員の参加を期待している。

文科省予算(案)では総計4000人のガード要員。多いようだが全国で4000人。1都道府県当たり約80人。例えば東京の公立小学校数は区部だけでおよそ800校。区市部併せて1200校。私立を入れずにだ。

4000人に予算をつけた(つけよう)、という点では文科省の努力は評価すべきであろう。最近の教育予算の検討では稀なことではないか。

何せ今まで多くは「ボランティア」という名の無償の貢献活動が中心であった。
しかし予算(お金)が付いたからといってボランティアを含めた新たなスクールガード要員の参加が期待できるか。それだけの余剰(失礼)人員が地域社会に存在するか。

「子どものために通学路に立とう」という思いのある人は既に立っている。
新たに参加できるとすれば先ずその多くは「高齢者」ということになる。
高齢者にとりお金をいただき(「やらねばならない」と半ば義務化して)子どもの登下校路の緊急時には体を張って不審者の接近を止めろ、というのはかなりシビアな仕事になろう。ボランティアの方が良かった、私はそこまでできない(実際複数の県でそのような意見が出ている)、ということになりかねない。

あるいは働き方改革により若いお母さんお父さんの参加も考えられる。しかし川﨑事件では若い素人のお父さんが最初に倒された。抑止力にはならない。お母さんに至ってはましておやだ。もし「力」があっても朝のその時間だけで一日分の体も心も消耗してしまうに違いない。

ということはスクールガード強化政策の②実現性は叶えても①の効果効率性に黄色ランプがつくことになる。

あるいは警備業従事者。もしくはヨーロッパの国々で行っているように失業者あるいは流入外国人への職業保障政策の一環。この予算で彼らを実戦力を備えたスクールガードとして確保できるであろうが、しかしその予算は今後経常的に出せるのか。まさか今年だけではあるまい。予算(お金)の切れ目が安全の切れ目、ということになってはならない。しかしそれが保証された予算(案)か。]

この疑問が出るということは③の持続性も疑わしいということになる。

ということは、今回予算に関して①②③のいずれの評価尺度においても100点満点を出す事は出来ない、ということになる。何点あげればよいのか。

子ども見守りに予算が付く可能性がでた。この点は高く評価する。しかしこれによりなされる子ども見守り強化策(予算)が金はつけたが一時的対処的見てくれ対応(「お金をかけてともかく何かやった」にすぎない、すぎなかった)という辛口評価が出ぬようにせねばならない。
文科省は、根本的な子ども安全策に過去に囚われない大胆な検討を進める必要がある。(案)はある。

これまで成されてきた犯罪予防政策の原則として、1つの政策が効果を持つのは長くて4年(あるいは6年という人もいる)、短くて2年にすぎないという説が実務家や研究者の間である。仕込みの期間を入れるから長くやっているように見えるが、少なくとも実質4年以上は持たない、ということだ。犯罪も変わるし犯罪を生みだす環境も何より被害者も変わる。実質賞味期限4年(あるいは6年)。

防犯カメラが長期にわたり(といっても1995年3月のオーム事件後の24年間だが)抑止効果を持ったのはそれまでになかった「カメラに映った犯罪者は必ず捕まる」という検挙=予防観と、カメラの全国隅々までへの絶え間ない普及努力(多額なカメラ予算の投資と国民運動)と機能の進化があったからに他ならない。

最近(ステルス型犯罪が登場した4年ほど前から)の犯罪者行動は、このカメラ抑止力(万能)説を神話化させつつあるように見える。少なくとも犯罪企図者の多くに「捕まるまでにヤル事はやってしまえ!その後、うまく逃げおおせればメッケモノ。あるいは死ねばそれまで」という心的機制が生じつつあるのは間違いない。この心的機制をコントロールするのは極めて厄介だ。

今回のスクールガード予算は2年あるいは4年間の時間稼ぎになりかねない。文科省は、この稼いだ「時の間」に根本的対応策の開発に取り組み、それを実現させ定着させねばならない。子どもと学校を熟知した文科省ならできる。

子どもを被害者とする犯罪が「絶対零」になる世の中の実現を強く希望はするが、当面その可能性は考えられない。なぜなら世の中がそうなっているからだ。細かく分析すれば別だが、取りあえずそうとしか言いようがない。

ただそうした犯罪を管理する、すなわち起こってはならない子ども被害犯罪は起こさせない、被害者になってはならない子どもはならせない、起こってはならない場所や時間でのそうした犯罪は起こさせない、もしこのタブーを破った者には総力を挙げキチンと責任を取らせる(どこまで逃げてもどこまでも追いかけ検挙する)、ことはできる(清永ら、新潮新書)。しかしこの管理論を成り立たせ世の中に定着させるには、これまでにない犯罪性質論(例えば犯罪には転移性(転地性・転時性・転人性)のあること等が語られる必要がある。いままでの犯罪学や刑事が国は見られない視点だ。

再掲になるが川崎・登戸事件を背景にした私たちの提案を次回に載せておく。
(文責 清永奈穂 八手紘子 清永賢二  2019・08・27)