朝芽さんの死について、何らかの意図で自ら「川の中に入った」という考えが強まっている。確かに「幾つもの疑問」が解消できぬまま、水の中からご遺体が見付かったこと、そのご遺体に外傷がなかったこと、ドライブレコーダーに一人で「どて(堤防)」を上がっていた等という情報から「自らの何らかの意図で川の中に入っていった」「それ以外ないのでは」という思いが強まっている。

ただここでもう一つの(最後の、と言って良いかも知れない)疑問が浮かぶ。それは朝芽さんが、江戸川に入水しようとして、果たして「入水できたか」という問題である。

最初に浮かぶ答えは、靴や靴下を置いていた場所のすぐ横を走っている(河川敷を横切る)側溝を伝わって川岸にたり、川中に入っていったということである。しかしこの側溝は、私たちの目視でおよそ1メートル近くの深さがあり、おまけに雑草が覆い被さるように生い茂っており、到底そこに降り立つことは出来ない。降りたとしても側溝の底は落ち込んだ枯れ草や小木・小石などで荒れている上に、川岸まで相当の距離があり、歩いて行く気には到底なれない。

ともかく朝芽さんは、どのような道筋か判らないが、何とか川岸まで行ったとする。その川岸に立ってみると、川の水面から川岸までかなり高く、私たちの目視ではおよそ1㍍近く、長岡技術科学大学の齋藤英俊教授らの検討では、朝芽さんが不明になった前後の日の雨量による影響を入れて80センチほど、しかも水面から川岸までほぼ垂直に切り立っている状況にあると推定された(「千葉・小1女児行方不明の現場近くにあった川岸の崩れ砂」齋藤英俊 10月7日9:00投稿)。

齋藤教授は、江戸川での溺水の可能性を「崩れ砂」の特性から検討している。ここで私どもは朝芽さんが「自分から川に飛び込む」ことの可能性を考えてみる。

朝芽さんの身長はネット情報で1㍍15センチ。これに水面から朝芽さんの向かいあっている川岸までの80センチ(齋藤推定)を足すと1㍍95センチ。朝芽さんの頭頂から顔の目当たりまでがおよそ10センチあるとすると、朝芽さんは1㍍85センチの高さから水面を見下ろし、川に入ろうとしたと考えられる。人間の高さ感覚は、足下からの高さではなく、自分の目(目線)からの感覚で決まる(目で測る)。もし腰を折って中腰で入ろうとしたとすると、たとえば目の位置は1㍍15センチのおよそ半分の57.5センチ、それに80センチを足すと、中腰でも1㍍37センチの目の位置から水面を見下ろし、川中に入り込んだ(飛び込んだ)と言うことになる。立っても、あるいは中腰になっても水面からは最低で自分の背丈(115センチ)よりも目の位置は高くなる。

いかに「水面」とはいえ、小学校1年生の女の子に自分の目の位置を超える高さから「飛び降り入水する」ことの出来る行動か。それも足下から水面までは垂直状におよそ80センチも深く落ち込んでいる。

例えば、こういう高さに対する恐怖感が基本的に欠けている場合はあり得る。しかし家族や学校での「朝芽さん感や行動」について聞く限り、そうした様子は聞こえてこない。

あるいは自らの意思で「死んでも良い。どうでも良い」という思いで入水した場合もあり得る。その場合、普段の生活の中で、あるいは当日、それほどの思いに駆りたたせる何かがあったのか。これも周囲の状況から考えてあり得ない。

そもそも先の稿で述べたように、小学1年という年齢の子どもに、そうした悲劇的な「自殺念慮」が生じ自ら死を望んだ例を過去聴いたことがない。私どもの安全指導で朝芽さん年齢(小学1年生)の子どもに接して、それほどの高さ(80センチ。私たちの目視では1メートル近く)から飛び降りることのできた子どもを、やったらやれるかも知れないが、見たことはない。

さらには朝芽さんが川の中に入ったのは、靴や靴下を置いた近くの「ここの川岸」ではなく、さらに離れた別な場所から入った、ということも十考えられる。しかしそうした場所(川岸)に行くには相当歩かねばならず、その場合、靴や靴下を脱ぎ、裸足(生足)になってそうした場所を求め歩きまわり、その際生じる雑草等との接触による「チクチク感」などの刺激に耐えられる朝芽さんであったのか、という疑問が生じる。こうした状況も朝芽さんに抱いてきた周囲の思い、特に家族によりなされた指摘からは考えられない。

さまざまな無理があるが、それでも朝芽さんは自らの意思で「静かに川の中に入り込んだ・飛び込んだ」という可畝体は絶対無いとは言い切れない。しかし靴や靴下を脱ぎ置いた場所からは川岸に辿り就くにはかなりの距離がある。朝芽さんは、なぜその離れた場所に靴や靴下を置き、生足で川岸まで歩かねばならなかったか。私どもの思いでは「それほど無理をせず」川岸で脱げば時間を掛けずに入水でき、また雑草との「こすれ」で生じる「チクチク感」などの嫌な思いをせず、そのまま「素直に入水できる」のではないかという思いがする。実際過去の入水自殺の現場では(わたしが接したのは関東圏での、1985年からの少数の入水事例)、靴や靴下を脱ぐにしても、(過去の例では靴下まで脱ぐというのは少ない。殆ど無かった)、あっても入水する川岸のすぐ側に靴を置いて(その場合、揃えて)入っている例が殆どであった。

またもう一つの可能性としては、川岸の上から突き落とされた可能性がある。その場合、靴や靴下がなぜ川岸から遠く離れた場所に置かれていたのかが判らない。たとえばその場合は、そうした場所に置かれていたのは「偽装工作」で、本当に入った(落とされた)のは別な場所であったということも考えられる。この偽装工作を見破るのは、新たな証拠がでない限り難しい。

ともかく朝芽さんの溺水には、従来から見られてきた子ども入水行動とは大きく異なるものがあり、幾つもの疑問が残り、疑問が疑問を生む状況にある。おそらく警察関係も「単純な水死」と「何らかの背景のある事案」とで、まだ揺れ動いているのではないか。

いずれにしろ朝芽さん、私たちはあなたのことを忘れない。

(文責 清永奈穂 木下史江    2022/10/11)