先日久しぶりに講演会(独演会?)をオンデマンド(PC会議)で長岡造形大学名誉教授の平井さんと3時間近く行った。対象は様々な企業の若い管理職予備軍であった。

平井さんは至極まっとうに素晴らしい講演「コロナウイルス禍後の日本の変化」をした。受講生の高い評価に少しの嫉妬を覚えた(私は、もともと嫉妬深い)。私は、SDGs(エスディージーズ)と子どもの安全教育を結びつけ「アジア安全教育協会の設立構想」を、いつもの通り全く面白おかしく話しした。お馬鹿丸出しであった。

 この独演会で学んだことは二つ。

 一つは、オンデマンド(PC講演・会議)は講演会あるいは会議のツールとして十分使えると言うこと。特にプロジェクターと連結すれば、大人数の講演や会議にも用いることができることが分かった。このシステムの拡充には、心底驚いた。時代は、ここまで来たかという思い。実際清永奈穂は、コロナウイルス禍のため延びていた警察庁主催「子どもの安全」講演を、9月以降背延刻で行う。その際、例えば福岡会場にいる奈穂に加え、東京や神戸にいる平井さんや元犯罪者等とオンデマンドで結んで行うという企画を立てている。これは面白い講演になるのでは。

 もう一つは、これからの学校教育に、こうしたオンデマンド方式の授業が入り込んで行くだろうということ。オンデマンド授業のメリットは数限りなく上げることができるし、実際着々と日常生活への装置化(導入)が進んでいる。

しかし逆にそのデメリットも浮き彫りとなって来ている思いがする。

 たとえば子どもの通う19世紀以降の「学校」には二つのカリキュラムがある事は、よく知られたことだ。

 一つはテキストを用いた正統派の意図的体系な「授業カリキュラム」だ。もう一つは、学校空間を構成する集団(教師や学友)が表現する「振る舞い」や「生活習慣」、なんとはなしの会話や慣習的行動など、いわゆる無意図的で非体系的な「隠れたカリキュラム(hidden Curriculum)」である。「隠れたカリキュラム」は、「自分とは異なった文化を持つ集団:との直接接触を通し実質「私たちの日常生活における文化的生活」の基層を作る。19世紀以降、「学校」はこの二つのカリキュラムを両輪として人間形成を進め、文化の伝承と新たな創造を図ってきた。

 しかし21世紀のコロナウイルス禍の下で進められようとしているオンデマンドな授業中心の「学校」改革からは、この「隠れたカリキュラム」が全くなくなる(消失する)とは言わないが、その存在を希薄化しようとしている、あるいは人間形成における重要性を斟酌することなく進められようと感じられてならない。

 もしそうであるなら「学校」は大きく変化すると同時に、子どもを通したわが国の伝統的文化の保守・継承そして創造機能は大きく失われてゆくのではないか、という思いがつのる。たとえば羞恥心や期の配り方、悲しみや怒りの眼差しなどを感知する「力」を持たない子どもひいては大人が育ってゆくのではないか。子ども世界が、今でもその傾向にあるが、さらに皮相的あるいは劇画的で衝動的斟酌無しのものになってゆくのではないか。そうするとこのオンデマンドで育った子どもが、これから働くかも知れない非行・犯罪やいじめあるいは自殺の「形(表現方法)」も、これまでとは大きく異次元なものへとなってゆくのではないか。

 そう言う意味でコロナウイルス禍は、単なる「病」ではなく、大きな学校変革の鍵となろうし、ひいてはわが国固有の文化を「あっと驚く」別次元なものへと導く「文化変容の種子」になるとも考えられる。

(文責  清永賢二 清永奈穂            2020・06・08)