この件に付き私見を書くのは止めた、と思っていたがどうにも腹の虫が鳴きやまず(収まらず)、補遺として今回だけ書くこととする。

私は7年前に脳梗塞で倒れ、医師から「死ぬか植物人間か、どちらか選択しろ」と迫られたものである。幸いというか残念というか生きて現在に至っている。それでも右半身に麻痺が残り、物事が忘れやすくなり、読み書き話す能力は病を得る前の5分の1に落ちている。そうした自分を自分自身が激しく腹立たしく思う毎日である。はっきり言って障害者の一人である。この状態を踏まえて今回相模原事件とその犯人を診る。

私の腹立ちの源を探ってゆくと、どうも彼=相模原事件の犯人が言う「無能で役だたない金食い虫の障害者は殺した方が彼にとっても社会にとっても幸せだ」(抄訳。間違っている場合はすみません)という思いに行き着く。では私のような障害者はどうなるのだ。殺して良いのか。私は殺されたくないし、自分の死ぐらいは自分で選び採りたい。

それはともかく私だけでなく「障害者=一人の人間=個人」として生まれたものはどうなるのだ。

彼=相模原事件の犯人の頭(蓄積された知恵・知識・教養)の中には、「・猿・犬・猫・豚・・」という動物間の序列(動物たちに失礼)はあったとしても、「一人一人人間として生まれ生きている個人」という存在への想い(思い)が形成されていなかったとしか思えない。

つまり彼にとっては、相模原の施設で殺された「人間」は、「人」という「動物視」はされても、「生きている人間」だという思考が全く欠落していた。そこでは障害者は「使えるか使えないか」のモノでしかなく、だから彼は平気であのような残虐な行為に走れたし、障害者を障害の程度によって選別し、平気で「障害者の生命=肉体をこの世から破棄=殺害できたのである。おそらく彼には、「殺す」という意識よりも「処理する」という意識しかなかったのではなかろうか。

彼は、前稿で述べた中和の理論を用いて自己の行為を正当化できても、自分が「人間」に何を働いてしまったか語ることはできないであろう.この事件後彼に何を聞いても知りたい答えは選らないに違いない。考えることができないのだから。(「思考し得ぬことを語ることはできない」ヴィトゲンシュタイン;論理哲学論考)

彼の背景にあるのは、先の稿で述べた様に自分たちの役に立たない=感に障るモノは自由に処理しても許される、という横浜ホームレス狩り少年たちの精神と通底した思いがあ。これは今世界的に横行している「テロリスト」の精神にもつながる。彼は「テロリスト」である。彼に聞いてみたい、中東やフランス・ベルギーのテロリストとその行為についてどう思うか、と。

教育者の家庭に生まれ、大学・教育系の学科にまで行き、障害者施設に勤務し、普通の子ども・普通の青年・普通の大人なを装っている彼。彼は「体は普通、身はテロリスト」である。

怖いことだ、あなたの横にいる青年がテロリストの素地を持ち、いつその方向に走るか分からない存在だとしたら。でしょう?

そういう意味でテロと無縁の我が国でも、これからはテロ発生の可能性はあるし、国内では無いとしても「テロに走る日本の若者」という記事に向かいあうかも知れない。

そういう兆しを背負った人はかなりの数いることは確かだ。今回の東京都知事選で相模原事件犯人と似通った人間観を持つある候補者が10万票を超える票を得た。この日本で10万人のテロリストがいればテロは十分成り立つ。

要するに相模原事件の犯人とその行為を通し、私たちは改めて以下のことを確認しなければいけない。

人間は「動物としての人」として生まれると同時に「個人として生き延びる権利を持った個人=自分で自分押しを選べる人間」としても誕生する。単なる動物ではないのである。

こういった「人間」という存在に対する近代社会の大法則が彼の頭の中に築かれていなかったのだ。最高学府と位置づけられる大学で何を学び、何を教えられたのだ。刺青の入れ方か。彼は「病」ではない。もちろん彼が使用していた「薬」の性でもない。彼はこういったことを教えなかった私たちの作り上げたモンスターである。

結論。

彼をもう一度幼稚園から徹底して学び直し大人にし直すこと。刑務所の中で幼稚園児の服を着せ、食事をさせ、幼児の言葉で会話させ、徹底してしつけし直す。ほ乳瓶で水を飲むことから初めて良い。

彼を簡単に死刑にしてはならない。彼のような人間となりきれなかった人=動物を育てたのは、私たち自身である。彼は学び直すことにより、死刑よりも厳しい「何をしてしまったのだ」という思いに生涯苦しむに違いないし(苦しんでもらいたい)、その地獄の底の様相を徹底して見て私たちに報告してもらいたい。死ぬに死ねない地獄を見てもらいたい。人という動物の皮を被った獣の振る舞いを私は決して許さない。表には出さなくとも、こうした刑を科したい人間が政治の世界を中心としていかに多いことか。研究者にもいる。

これが私の腹立ちの心底である。(文責 清永賢二 2016年9月9日)