最近の様子を見て「いじめ問題」は恐ろしいことになったと思う。魔女狩りならぬ「言葉いじめ狩り」だ。

この様子は2013年「いじめ~教室の病」の共著者である故森田洋司氏と深夜に及ぶ話し合いの時に「こうなるだろう」と予言し、そうなった時に「あなたも私も共に責任を取ろう(なぜなら「いじめ」という言葉で初めて共著を著した)」という会話を交わした。その時「いじめ法」の策定に深く関わっていた彼は「いや大丈夫だ」と言葉を結んだ。その言葉を聴いたその後すぐに、私は「あなたとは、いじめの本質」を共有できないとして、共著「いじめ~教室の病~」の絶版を申し込み、彼も了承した。私の「いじめ観」がどのようなものであるかは、著書「いじめの深層を科学する」に詳しく記述している。

今回まで続いてきた稿はここで終わりにする。これまでの稿といくつかの調査及び著書を綴ることにより、森田氏に迫った「責任を共に取ろう」という約束は、私なりに果たしたつもりだ。

ただ以下のことは言葉不足にではあるが最期に言っておきたい。

 これまでに述べたように現在の「いじめ」は「いじめ」という言葉であり、「言葉いじめあって、いじめなし」であり、実態の無いものである。云われている「いじめを無くす」は、単なる言葉狩りに過ぎない。本質が抑えられていない。それが真面目に言われているだけに始末に負えない。

 何でもいかなる行為でも「いじめだ」と言えば「いじめ」になる。「いじめ」と呼ばれる行為は、同じ行為であっても、「いじめ」と呼ぶ者(被害者)のその時の「気分」によって「いじめ」になったりならなかったりする。極端に言えば何をやっても「いじめ」になりかねない。

 例えば「気分」は、多くの場合、その時その人その場その対象、さらには地域により変化する。北海道と九州で「いじめ」と判断されるか否かは、同じ行為であっても異なってくる。「つねる」という行為でも、恋人同士の間では「愛」の「痛みをともなう身体表現」となる。そうでなければ「イジメ」あるいは「虐待」だ。

 はっきり言えば「気分」で「いじめっ子」として裁かれる方はたまらない。結果、「いじめ」を巡る裁きは、遺恨の残る裁きとなり、場合によっては終わりのない紛争・葛藤の種とならざるを得ない。

 「いじめ」の本質は、「子ども間(カン)」における機能不全である。その機能不全は「人間の加害者と呼ばれる者と被害者との間の相互作用(やりとり)であり、互いの普段の交流=付き合い方のまずさ=無作法さ=不器用さ=逸脱性」、さらに言えば「やりとりする二人」の「(これまでに身につけてきた)躾」や「(人間という存在をどう見るか、という)人間観」に起因する。

 ここの所をしっかり押さえねば「いじめ問題の本質」を押さえたことにはならない。ここのところを押さえきれぬままに「いじめ」を語り、「いじめられっ子」を一方的に擁護し、「いじめっ子」を糺弾する。これでは絶対に(と言って良い)「いじめ」を無くすことはできない。

 それが「いじめ法」では、そうなっていない。今日の「いじめ」をめぐる混乱の大きな原因は、この法にあると云って良い。

 このことについて語りたいことが数多くあるが、時間的体力的に厳しい状況にある私が、もう十分なことを書き述べることはできない。諦める。ただ以下の2点だけは指摘しておきたい。

 第1に「いじめ」という言葉はなぜ必要とされ、何を目的に社会的意味ある言葉として多用化されるようになったのか、「いじめ評論家」の方々には、この点をしっかり押さえておいてもらいたい。

 指摘しておきたいことは、「子ども」という存在をどう見るかだ。

 子どもというのは、成長発達の過程にある未成熟で不格好な者だ。だから「まだニンゲン」であり「子ども」として扱われる。「大人」ではない。しかし教育によって将来はどうにでも成る。逆に言えばだから将来社会の「宝物」なのだ。どんな悪ガキでも宝物だ。

「いじめ」を糾弾しているあなたに言いたい。あなたは今「いじめ」と呼ばれる行為を子ども時代に行ったことはないか。そういうことはしなかった、と言ってもその時は「言葉いじめ」がなかっただけではないか。

私自信を振り返って見ると、本当に恥ずかしい「いじめ」を積み重ねて来た。ごめんなさい。でもその過程で友だちの泪を見、その時こっぴどく周り(特に親)から叱られ、いかに恥ずべき事やしてはイケない事をしたのか、そういう行いがあるということを学び、少しずつ大人になった。後でこのことを「社会化」と呼ぶことを先生から教えられた。

 今の日本で、この子どもを大人にする「躾作法の学習」をどこで誰が行っているのだろうか。

 学校で、それを幼稚園から始まって中学(義務教育期間。英国ではこの期間に「子どもを大人にする」カリキュラムを組み(Citizenship Education)、この期間を過ぎたら「我々はあなたを大人にする教育を行った。あなたは、もう子どもではない」として「大人」として扱う。それ以降失敗(delinquent)したらdeviantとして容赦なく扱う。)までの間に首尾一貫して行えるほどの時間が取れるだろうか。現在の学校環境から考えて到底そういう時間は取れないのではないか。第1そういう「時間を掛けた躾=社会化」を親(保護者)も社会も許さないのではないか。

 また子どもは、日常生活の中で、そうした悪ガキの混ざった学びー学ばせるほど心の余裕のある(特に進学を巡って生じる様様な葛藤を乗り越え)友達関係を幅広く持つことが出来るだろうか。

この「イジメ」稿に関し、多くの方から「何故そうなのか」あるいは「それでは、これからどうなるのか」などの「いじめの根幹」に関わるご質問を頂いた。今回で終わりにする予定であったが、次回を持って終わりとすることでお許し下さい。

(文責 清永賢二         2022/12/10)