様々なご質問をいただきました。今さらながらに現実世界における「いじめ」の深刻さに気が付かされます。
拙署「いじめの深層を科学する(ミネルヴァ書房。2013年刊)」を読んでの質問の多いことに感謝すると同時に、著者として言葉が足りなかったかと考えさせられました。あるいは新たな考えを追加するべきでは、との思い。ここにお詫び申しあげます。
ご質問をいただき共通して思ったことは、言葉「いじめ」の公的定義の不十分さです。そのことが「いじめ」か否かの境界を曖昧なものとし、「できごと」「行為」に対する「人(特に専門家と称する方々)」の解釈を「そうだ」と思わせる一方で、「何か状況に沿わない」「一貫性のない」「状況迎合的なモノ」「今さら何を」などと感じさせているのではないでしょうか。
多くの専門家の事件解釈などを見ると、共通するのは「自分のいじめ観=定義」が明確に示されていないことです(清永の定義は前記拙書中に記述)。ですから人や組織により、あるいは「なされた行為」により、時代や社会・地域・状況にあわせ、どのような解釈でもなされてしまっています。その「曖昧さ(評論家的「軽薄さ」と云って良いかも知れません)」が産み出しているのが、今日は「しつけ」それが明日は「いじめ」という「何がなにやら分からない」悲劇です。一番の被害者は、その子の人間としての行く末を案じ、子ども一人一人と真剣に眼差しを交わしている先生方です。どこがどうやら分からない。
今や成された「いじめ行為」により刑事罰、多額の賠償、厳しい社会的処遇等がなされる時代です。
「罪刑法定主義」という言葉があります。子どもの教育に責任を持つ文科省は、既に行っているでしょうが、再度あらためて「いじめ」の公的定義と、その定義に従った公的対応のあり方を、この時代この時期に「いじめ」の確認の意味を込めて、しっかり示さねばならないのではないでしょうか。「できない」とは言わせません。そういう法律を作った当事者ですから。教育現場に責任を転嫁するな。
遅くなっても良い、改めて原点に戻って言葉「いじめ」定義を考え公表するべきです(実は文科省のいじめ専門家会議委員長を長年務めた森田洋司氏と「いじめの深層を・・」を2013年出した後、定義に関し夜間長時間の議論を交わし、その時「いじめ~教室の病い(日本での「いじめ」の最初の本。森田/清永共著)を、森田&清永の意見一致の元に、清永の意思で絶版にしました。)
ともかく文科省は、明確に現実を踏まえた実用性と実効性ある「これがいじめです」という定義を示すべきです。そうしなければ「いじめ」状況(訴訟等)は今後も不安定に揺れ続け、いじめは刑罰法令の対象行為として(曖昧なままに)取り扱われ、例えば「いじめの加害者とされた者が実は被害者だった(復讐のための言葉「いじめ」の公的場での使用など)」という病理的逆転現象などを産みだしてくることに成りかねません。

以上はあくまでも「いじめの深層を科学する」(ミネルヴァ書房)を著した清永賢二個人の考えです。上記の様な「いじめ状況」が生じかねない筋道は、同書の中に記述しております。

ご質問を下さった多くの方々のご質問一つ一つに応える事はできかねないので、これを持って私のつたない回答とさせていただきます。

(文責  清永賢二       2022/05/04)