私たちは、今回のコロナ禍の状況を、1910年代から20年代にかけ矢張り世界を震わせたスペイン風邪と同様、21世紀の歴史に残る大惨事(事件)と捉え、3月以降の「マスコミ報道記事や定点からの街並み写真」など、集められる限りの資料のフアイル化を進めてます。もう既にボール箱半分ほどの量になりました。私どもの研究所の時代を超えた基礎的資料となるでしょう。

その3/4/5月分の整理を行ったところ、コロナウイルス禍明け後に私たちは「家族崩壊現象」に向き合うことになるのではという予想を強く抱くことになりました。コロナウイルス禍の「医療崩壊」とその後の目も当てられない「家庭崩壊」。

例えば新聞やネット情報を見ると、以下のような見出しが目につきます。

「少年補導2割増、虐待相談も 広島県警4月」、「立ち止まり落ち着いて 虐待の不安、親に広がる」、「コロナ禍、中高生の妊娠相談が増加」、「子どもが不登校になった場合にもありがちだが、(家族の中で子どもも親も)お互い疲れてしまってうまくいかない。休校がさらに長期化すれば『コロナ疲れ』は一層深刻化する」、「4月のDV相談、昨年の1.3倍」、「(休校が)長引けば長引くほど、学校が始まった時に勉強についていけるか不安がつのる」、「つい子どもに勉強しなさい勉強しなさいと幾度も繰り返す、結果は子どもとの今までにない大げんか」、「夫はだいじょうぶ?あらためてこんな人とは思わなかった(50代女性)」。まだまだ幾つも。

これらの見出しが表現する「問題」は、一つ一つが個別な特殊性を持って別々なものと読めます。しかし底流を辿って行くと共通した一つのフレーズで括れることに気づきます。「家族」。「家族の危機」の問題です。親・夫婦の間で引き起こった問題、親と子どもの間で突発した問題、保護すべき愛しき我が子が引き起こしてしまった問題等々。コロナウイルス禍がなければ生じなかった問題等々。

コロナウイルス禍により「家族」というそれまで何ごともなかった大皿に、大小無数の「ひび(crack)」が入ったと私たちは診ます。
この「ひび」の入った大皿の表面をおおい隠す、コーテイングする、あるいは金継ぎ手当はできます。しかし根本からその「ひび(crack)」を完全に無くす(修復)することはできません。その大小無数の「ひび」の幾つかは、修復不可能な大皿の基底にまで達する割れ目として残ります。

即ち今は親も子も含め全員、外部からの要請に基づく「自粛」という形で「我慢」の生活を過ごし、誰もが大皿を叩き割るほどの破壊的エネルギーを噴出できないまま一見平穏に過ごしています(過ごせざるを得ない。そもそも家から出られない)。しかし「家族」という大皿の中に大小無数のcrackは残っているのです。

そしてやがてコロナウイルス禍も終息に向かい自粛も解けるでしょう。解けた直後は、家族一同「ヤット解けた」という祝祭行動に向かいます。しかし中・長期的に見たとき、何らかの形で大皿のcrackは深く大きく広く、さらに悪いことには互いに「ある一点」で結びつき、一本の大筋となり、やがては大皿を打ち割ることに結びつく可能性が高いのではないでしょうか(下図参照)。

「あのときあなたは、ああだった(チェ、またか)」。「わたくしが我慢している時、あなたはあんなことをした(お前だってそうだろう)」。「子どものくせに(親は誰だ)」。

「自粛」という力で押さえてきたものが、その時が苦しければ苦しかったほど、反動としての怒りや悲しみは大きくなる。「そういえばあの苦しい時あなたは・・・」「あのガキはあのとき、あんなことして」と再度思い起こされ、そこから様々な悲劇が生じることになります。

即ちコロナウイルス禍後、「家族」というまとまり、利己的行動を抑制する力、未来を共に創造する力、無私の愛、家族間の思いやりの消失などが表面化する可能性があります。前に指摘したように生じたcrackが無数であっただけ、いくつか傷の深いものほど残り続ける。そして一つ一つのcrackは僅かなものであっても、それらのcrackは相互に干渉し複合し合って解決困難なものとなり、大きな悲劇を生み出すことに結びついて行きます。これもコロナウイルス禍の一つと言えましょう(これを「コロナクラック」と呼びコロナウイルスがもたらした社会病理現象視したい)。コロナ離婚、コロナオレオレ詐欺受け子、コロナ親殺し、コロナ家庭内暴力、もう既にコロナ妊娠は起こっている。

今後、病としてのコロナウイルス禍が沈静化していったとしても、その後にこうした社会的コロナウイルス禍が家族を襲うことが十分考えられます。その芽は既に生じていることを私たちが整理しているフアイル資料が「におわせ」ています。

私たちはコロナウイルス禍後の「家族」に今から注目しておかねばならなりません。子どもの安全のために。コロナウイルス禍後に何が起こるか。今からその答えを引き出す準備作業(基礎的資料の袖手)を進めておかねばならないと思います。
(文責 清永奈穂        2020・05・25)