行動生態学的に見ると登戸事件と京都アニメーション事件は、表皮(見てくれ)ではなく構造的にきわめて類似した組み立てとなっている。

被疑者の日常生活と行動ー犯罪という攻撃行動の目的あるいは動機ー獲物(被害者)の選択ー下見ー準備ー襲撃―逃走ー結末。

文化人類学者のレビィーストロースが文明社会と原始社会を対比しそこに社会の共通性を読み解いたように、川崎と京都の間に、共通した骨格が外皮(余分なもの)を剥いで行くと浮彫になって出て来る。

誰もこの点を突かない。突かないものは繰り返される。学者の怠慢。あるいは知恵の衰退。

ヨゲンデキルコトハ、ダイショウノチガイハアルガ,コンゴモコノシュジケンガツヅクデアロウコトデアル。あるいはオコラナクトモ,オコッテフシギでナイカンカクガツヅクデアロウ。

結論として言えることは、デュルケームがアノミー論でそうしたように犯罪の背後にあるもの、あるいは基底部にあるものを読み解いて行く必要がある。逸脱行動の全てを誇示に還元してしまう心理学主義あるいは精神病理学主義に陥ってはならない。

私自身が詳細な検討を進めるべきなのだが、悔しいことには割くべき時間があまりに少ない。誰かやらないか。

私たちが忘れてならないのは、アニメという彩り豊かな夢を抱いていた方々が、その夢へ向かって走ることもなく炎と煙の中で生を終えたということである。この方々の無念さは鋭い痛みとなって胸を打つ。老いて行くものにとり本当に許せない悲しいことが続く。

(文責 清永賢二      2019・07・20)