06

3月

2011

<最新>事件に学ぶ 熊本「心ちゃん」事件;本当に被害者化を防ぐ手だてはなかったか③防犯カメラ(最終稿)

 

  事件に学ぶ

熊本「心ちゃん」事件;本当に被害者化を防ぐ手だてはなかったか③防犯カメラ

 この事件を報じる記事(新聞XとY紙、35日及び6日朝刊)を見る限り、次のような点が注目された。

「警察庁幹部は『いきなり女児を襲って、殺害するような事件は防ぎきれない』と話している」。(既載)

スーパーの死角が突かれた。 (前回)

トイレというプライバシー第1の密室性が突かれた。 (前回)

防犯カメラの「存在を知る」ことで犯罪の発生を減少させることはできる。しかしトイレの中や周辺にはあまりその存在を示すモノがなく、カメラの効果が発揮できない。 (今回)

 

 

 学ぶことの

④に注目すると、「防犯カメラ」はなぜ事件を防げなかったか、が論議されねばならない。

 

 

防犯カメラには、いま現在、「今起ころうとしている犯罪」を引き留める機能は殆ど期待できない。起こった犯罪を解決する機能は発達してきている。

 

カメラの記録映像をつなぎ合わせ、犯人をトレースし追跡することによって事件を解決する。最近では東京・目黒で起こった「不意の侵入者による家人殺傷事件」の解決に、こうした手法が大きな役割を果たした。

 

こうしたことだけでなく、新宿駅の雑踏の中で特定人の行動を追跡するといった「カメラとソフト協働」の開発も進んでいる。さらに漆黒の闇の中でも「白昼」のごとく色付で映し出せる超超高感度カメラが既に開発され、先に開発されている人間の移動行動と組み合わされようとしている。

 

 防犯カメラのこうしたトレース機能については、少なくとも1999年のイギリスでは日常化していた。いわゆる「ジル・ダンドー(テレビ・人気女性キャスター)射殺事件」で、彼女の1日を街頭テレビ(CCTV)の記録を繋いで再現し、最終的に被疑者にたどり着いている。その時、ついでに話題になった防犯カメラ関連の新聞記事として「第2のロンブローゾが出現するか」というのが注目された。

 

 T.ロンブローゾとは、19世紀イタリアの医者で「犯罪者の骨相学」を唱えたことで著名である。彼は犯罪者は他と異なる骨相を持っているという。額(ヒタイ)は狭く云々。彼の主張は、その後の医学と犯罪学の進展そして犯罪事実によって破綻してゆく。

 

 しかし1999年「The Times」は大まじめに「ロンブローゾは復活する」と述べた。その背景には、既に写し取っている犯罪者の顔写真を基に、どの様な角度からからでも通行人の顔を防犯カメラ(cctv)で写し、先の犯罪者の顔骨格と一瞬に照合し、3分間で犯罪者を検挙することができるという実験が進んでいるという事実があった。この工夫はイギリスのフーリガン対策に既に使われているという噂がある。

 

ここまで来ると防犯カメラは、犯罪予防に大きく寄与する異が出来ることとなろう。反面、想像を超えた恐ろしい事象も起こることが予想される。

 

ともかく現在の防犯カメラには犯罪者の犯行直前の行動を抑止することは出来ない。がしかし、本当に出来ないか。人間と防犯カメラを連結し、写すことはカメラで動くことは人間で、とい役割分業は果たせないか。

 

1990年、思い出す2つのシーンがある。ニュヨーク5番街の宝石店の通り、同じくペンシルバニア駅(ペンステーション)構内トイレ前の2シーンである。

 

5番街宝石店の前を夜間1時頃(当時、ニュヨークでも何処がどの様に危ないかを知っておれば深夜でも歩けた)歩いていた。宝石店のショウウインドーからは宝石がしまわれ消えていた。その代わりにウインドウの中には「テレビモニター」が一台。その画面には店の奥の金庫室が写されていた。通行人は自然にその画面を見ることで金庫見張り番をさせられていたのだ。

 

ペンスステイション・トイレ前。そのトイレ前には簡単な席が置かれ休めるようになっていた。その頭上にはテレビモニター。そうその画面にはトイレ入り口が映っており、座って休んでいる人は自然なそうとは意識しないトイレ監視人の役割を仰せつかっていたのだ。

 

犯罪者は犯罪行動の最終場面では「人間の目、手足」を非常に気にする。防犯カメラや警報音なぞ問題にならない。5番街やペンステーションに見るよう、防犯カメラと人間のこうした組み合わせがあることを教える。

 

犯罪防止論の視点からいえば監視には、①人工監視、②自然監視の2種がある。5番街やペンステーションの例は、人口監視(防犯カメラ)と自然監視(人間の目)組み合わせた巧みな監視だ。こういうことを考えるのが「環境設計(CPTED)による犯罪防止」という。

 

CPTEDの視点で今回事件をみると、事件現場であるトイレ入り口には防犯カメラはついていた。十分。しかし犯罪企図者の行動は止めることが出来なかった。必用にして不十分。その理由として、1つは「カメラ有り」のステッカーが貼られていなかったことがあげられる。カメラは写すことは出来てもアクションを起こせない。せめてステッカーでも、とは考えられる。

 

私であったならばペンステーションの例に基づき、防犯カメラのモニターをフロアーに示す。しかしこれでは、モニターに遠方からでも常時人の出入りが連続して明示されてしまう。出来れば、トイレには前回述べたような「見えても見えない振り」つまり人々の「さりげない無関心」を利用者や周囲に満足させる工夫がなされねばならない。

 

そこでトイレへのエントランス入り口に「鏡(交通で道路曲がり角煮付けられたような、しかし小さな鏡)」を取り付ける。そしてその下に「このトイレはみんなで見守っています」というステッカーを貼る。

 

この鏡をじっと凝視する者はそれこそ不審者だ。売り場の店員はこの鏡を「チラチラ」と見るあるいは意識することで自然監視のトイレ定点観測員の役割を果たす。

 

これによって店側は「さりげない様子」をしながら「さりげない無関心」から「さりげない関心」へと垣根を越えることが出来る。

 

こうした工夫をする者をイギリスでは「建築担当警察官」という名前を与えて専門職化している。この専門職の養成は既に30年以上の歴史を持つ。

 

今回事件に対し、何もできないのではない。出来ることはたくさんある。知恵。これなしに防犯カメラをともかく普及させれば良い、という考えは危ない。「物」に頼った「人が犯した犯罪を防止」しようという防犯はどこかで破綻する。「人間―機械」の連結を工夫すべきであろう。

今回の心ふさぐ痛ましい事件は、防犯における「Human Interface」的発想の必用なことを痛感させる。

 

「心ちゃん」、あなたの大きな未来を奪った今回の事件が二度と起こらないよう私たちは努力します。

                     (清永奈穂、清永賢二)

 

 

学ぶことの②

②と③を合わせて注目すると、「死角」「密室」という言葉が明確に定義されて使用されるべきではなかったか。

 

 死角は密室性と結びつき、「犯罪」という言葉にミステリアスで秘密めいた臭いをふりかける。

都市の死角、高層ビルの死角、家屋の死角。男女の死角。スーパーの死角。トイレの死角。

 

何でも「死角」という言葉を後ろにつけると、無機質で冷たい「犯罪」という言葉も深みを増し、人間そして人間が造りあげてきた人工物の犯罪への強い関わり、「犯罪」と「人間」の関わりが強調されてくる。

 

しかし、改めて「死角」とはどう定義されるのかと問われると思わずグッと息が詰まるのも事実だ。死角とは何か。

 「死角」を理解するには、そもそも犯罪とはどうして起こるか、から説き起こさねばならない。

 

 犯罪はなぜ起こるか。簡単なことだ。

犯罪者がいて被害者がおり、彼らを取りまく社会的物理的環境があるからだ。この3者が交わる真ん中の1点、そこで犯罪は起こる。この1点を犯罪者は「機会(chance またはopportunity)」という。いわゆる「チャンス」だ。これに対し同じ1点でも被害者は「死角(dead angle)」という。そして犯罪予防論の立場では「隙間」と呼ぶ。犯罪はこの隙間を突いて起こってくる。

犯罪は隙間産業だ。

 

被害者の立場からの「死角」をもう少し砕いて表現すると「見えない、見えにくい」ことをいう。周囲から見えにくい「死角」を「チャンス」として犯罪者は襲いかかるのだ。「密室」はこの「見えない、見えにくい」が完璧に形成されている空間に外ならない。

 

今回の熊本事件に焦点を当てよう。

 

事件現場は「トイレ」という「密室」であるが、そこに至る入り口は、店員や買い物客から極めて見通しの良いフロアーとなっている。見えるのである。「死角」ではない。ということはこのトイレに関して云うと最終的な女児と被疑者が対峙した「女性トイレそして死体をリュックに詰めた障がい者用トイレ」は、通常の「死角」概念で説明できるが、売り場フロアーの便所入り口から個室までのアプローチ(以下、アプローチ)は「死角」以外のあるいは「死角の別な説明概念」を必用とするということだ。今回事件のトイレのアプローチは防犯カメラも備わった、周囲から「見ようと思えば見えた」現場である。しかし誰も気がつかなかった。

 

ここで「トイレ」とはどういう空間か、という説明が必用となる。

 

トイレとはご不浄で恥ずかしい空間であり、出来れば見られたくない、見てはならない空間である。また緊急にして必要不可欠な空間でもあり、どの方角からでも駆け込める(閉じながら開いているという矛盾)、その必用とする姿を利用する者は見られたくない空間でもある。そこでトイレの入り口から最終的な密室空間まで「見られないよう」「見せないよう」しかし「できれば利用しやすいよう」な造りが求められることとなる。

 

しかし、この「閉じながら開く」という矛盾を解決する巧みな工夫はない。どちらかを犠牲にせねばならない。

そこで多くのデパートのトイレに見られるように、トイレは売り場の一番外れで、周囲から見えないよう(わざわざ不便さを求め)、かつ個室アプローチへの入り口手前に利用され易い、どちらからも駆け込めるよう(犯人側から見ると獲物に近づきやすく、逃げやすいという犯罪者行動の基本原理を満足させる)簡単なT字の壁を設けるという工夫がなされる。確かに視線は通らない見えない。

 

しかし今回の事件のトイレの場合は、アプローチ手前にT字の壁はなかった。このような場合はどうなのか。

見ようと思えばフロアーの店員やお客から「見えた」のである。結論からいうと「見えたけれども見えなかった」のである。

 

ここで「見える、見通せる」ということを考えておかねばならない。

 

「死角」は「見えない」ことであり、犯罪者が滑り込む隙間であることは前に述べた。いずれも「見ようと努力しても見えない」状態を産み出す。この隙間には①空間の隙間、②時間の隙間、③個人(心)の隙間、④人群れ(集団)の隙間がある。

 

しかし今回事件の場合、誰も「見ようと努力」していなかったのである。見えたのに見えなかった。それは「今回事件がトイレを舞台」として起こったということに起因している。即ち、誰も「トイレ」を見ようとしなかったのである。なぜ見ようとしなかったのか。先に述べたようにトイレが見てはならない空間であったからだ。じろじろ、または注視しては変で怪しいのだ。

「死角」の場合は注視する、注視しようと努力しても「見えない、見通せない」のに対し、トイレの場合は「注視できずに、そしてかつ(and/or)入ってしまえば完璧に視線が遮断」されてしまうのである。

 

ここで大切なのは「注視できない」ということで、多くの人は「さりげない無関心」を装い注視しない。つまり(注視することが職業化している人、あるいは余程の変態かを除いて)見えても見えない、見ようという努力を放棄した状態を作り出すのである。

 

即ち、今回事件の背後には、努力して注視しても見えない「死角(個室という密室)」と合わさって、注視しようとしない努力をする「さりげない無関心(トイレというご不浄空間全体)」が作用し、周囲の店員やお客さんからの視線を奪っていたのである。

 

この分け目は大切である。なぜならこうしたトイレのような空間に対する犯罪防止の重要な鍵を与えてくれるからである。自然で嫌みを伴ない鍵がここから得られる。環境設計論(CPTED)からの工夫だ。

どのようなことかは後に述べたい。

 

安易に「死角」という言葉を使うな、使うことによって犯罪はなぜ防げなかったのかという考えを煮詰めてゆく努力を放棄させ、再度の事件を招きかねない、という教訓をこの事件は教えてくれる。

        (子どもの安全教育グループAEC(エース)代表  清永奈穂 2011年3月9日)