「大地震に遭った子どもたち~日本海中部地震の教訓」

今回の東日本大震災は、近年の地震の歴史の中でも特異な部類に入ります。というのも、阪神大震災や中越の地震は、子どもたちが学校に行っている時間に起きた地震ではありませんでした。子どもの在校中、または登下校の時間に起きた大地震は1983年の日本海中部地震以来28年ぶりのことです。

その時子どもがどうしたか、そしてその後子どもたちがどうしたか、歴史から学ぶためにも、まず日本海中部地震の当時の記録をひも解く必要があるかと思います。

 

弊所特別顧問の清永賢二は、28年前の日本海中部地震が起きた直後、現地に飛び、子どもたちの様子をつぶさに見てきました(「大地震に遭った子どもたち」NHK出版 昭和59年)。

 

日本海中部地震でも、大勢の子どもたちが、先生たちや父母の目の前で一度に、雑作もなく、津波によって海のそこに引きずり込まれていきました。何の援助の手を差し伸べる間もなく、海底に次々と沈んでいく、あるいは学校の建物に押しつぶされ、日に追われて逃げまどう、、、そうした状況がたくさんありました。

 

日本海中部地震の場合、死者は104名、そのうち子どもは13名でした。遠足に来ていた小学校の子どもたちが、津波のため、うずまく海に引きずり込まれ、つぎつぎに海に消えていったことが、日本海中部地震の残酷さをより浮き彫りにしました。

 

こんなところで、こんな大きな地震が起きるとは思わなかった。こんな大津波がここに押し寄せると思わなかった。

青森、秋田で遭った人たちのほとんどがそういいました。

まさか、ここで、この時、私達が、、。

そう思った人々がほとんどだったといいます。

 

それは前触れもなく突然に、おそいかかり、たくさんの命を奪っていきました。

 

「4時間目の終わりころ、地震が来ました。

はじめ、地面がぐらっと動いた時は「地震が来たのか」と思っただけでした。

それは、私達の方へくる自信と言えば、弱いものばかりだったからです」

(秋田県N小学校 5年生 女子 「大地震に遭った子どもたち」より)

 

天災とよばれる現象が全てそうであるように、

日本海中部地震も何の前触れもなく突然に襲いかかりました。

(続く)

 

1983年(昭和58年)5月26日午後零時に、日本海中部地震が起こった。

今回の東日本大震災と類似する点は、学校に子どもたちがいる時間に大きな地震が起こったことだ。

 

日本海中部地震が起きてから、阪神大震災、中越、能登などでも大きな地震は起きたが、いずれも、学校のある時間帯ではなく、子どもたちは家や、その他の場所で被災している場合が多い。

 

今回の東日本大震災においておきたことを、未来の子どもたちにも伝え、そこからよいより未来が開けていくようにするには、まず、歴史から学ぶことが必要であろう。

 

1983年の地震の際の貴重な学校の記録を、少しずつ連載していくことにする。(連載①はをご覧ください。)

 

 

「大地震に遭った子どもたち~日本海中部地震の教訓」 (NHK出版1984年、清永賢二、小出」治、平井邦彦、井辺洋一)

 2章 子どもたちはその時 (より抜粋)

 

震動する学校~前触れもなく突然に

 

 冬の訪れの早い青森や秋田では、五月から六月に遠足や修学旅行を行う学校が多い。

バスを連ね、汽車に乗って、その朝も、多くの子どもたちが出かけた。

 秋田県の合川南小学校では、6年生は北海道方面への修学旅行、4,5年生は秋田氏から男鹿半島を経て遠い場所の遠足、1,2,3年生は近場の遠足に出かけた。

また、青森や秋田では、このころに運動会も催される。体育着を着て、グラウンドで走り、おどり、更新する子どもの姿が見られた。青森県北津軽郡にある中里町立武田小学校では全員がグラウンドに出て、行進の練習を終わった後だった。普段と変わらぬ平凡な学校の一日が過ぎるはずであった。

 

《4時間目の終わりころ、地震が来ました。

初め、地面がぐらっと動いた時は、「地震がきたのか」と、思っただけでした。

それは、私達の方へくる地震と言えば、弱いものばかりだったからです》

(西津軽郡深浦町修道小学校 5年 鴨美智子さん)

 

天災と呼ばれる現象がすべてそうであるように、日本海中部地震も何の前触れもなく突然に襲いかかった。

先生たちの多くは、大地震は関東地方に起こるもので、青森や秋田では発生するものではないと思っていた。

また、子どもたちは、先生たち以上にそう思い込んでいた。それが、心のすき、備えのすきを作りだした。

 

天災は忘れたころにやってくる、と同時に、天災と呼ばれる大地震は全国のどこででも発生する危険性がある、

と言うことをもう一度確かめておかねばならないだろう。

 

何百人あるいは何千人の子供が集まり学ぶ学校では、大地震に対する備え場より確かなものとしておかねばならない。

地震と引き換えにするには、子どもたちの生命はあまりに重く、将来の可能性は大きい。

 

地震だ、地震が来た。

 

様々なことが一度に起こった。

破局とはそういうものであろうが、日常の平穏を突き破って、様々な現象、行動が渦を巻いて噴出した。

 

《最初は、上の階の三年生が騒いでいると思いました。そのうち、床の揺れが激しくなり、次に上下にドーンという激しい揺れが来ました。之は大変だと思い、すぐに子どもたちに「早く机の下に隠れなさい」と指示しました。子どもたちは、本当に「あっ」と言う間に机の下にもぐりこみました。最初は「おもしろいな」というような声も聞かれましたが、次第にその声も出なくなり、私の「お話ししないでね」「泣かないでね」という指示を黙って聞いていました。

子どもたちのうちで、一人だけ地震の意味がわからず机の下に隠れようとしない子がいました。何度か声をかけましたが動きません。頭を押しこめるようにして潜らせたのを記憶しています。

廊下側のドアは全部開いていましたが、通行不能になっては大変と思い、ともかく窓を全部開けました。歩くのがやっとという思いでした。一人の女のことが泣き出しましたが、その時、周りの子どもたちが「泣くな」「大丈夫だ」と声をかけていました。

そのうち電気が消えました。つるしてあった蛍光灯が大きく揺れ、天井にぶつかりそうになり、落ちてくるのではないかなと思って、本当に天井ばかり見ていました》

(能代市能代第4小学校 二年担当 工藤綾子先生)

 

まったく幸いに、と言わねばならないだろう。大揺れに揺れる学校から火が出なかったのだ。

時間はちょうど午後零時。

昼食の用意がなされており、火が出てもおかしくはない時刻ではあった。

火が出なかった理由として、子どもたちの給食は、11半ごろに作り終え、

例時頃には教室に運ぶ用意をしていた(実際用意された給食の大部分がこぼれてしまい、避難先で子どもたちは大変な空腹に悩まねばならなかった学校も出た)、また、大勢の子どもを抱える学校であっただけに、給食室やガス貯蔵部分の管理が負d何からしっかりしており、それが有効に作用したなどの理由が挙げられている。

地震時に一番心配される火事は一校も出なかった。しかし、地震のお揺れは、学校のすべてを揺さぶった。校舎の土台を、子どもや先生の心を。

 

大揺れに伴い渦を巻いて発生した破局の状況を、いくつかの自然現象と、子どもの動きや先生の行動に解きほぐし、

渦の中をさらに細かく見ていこう。

 

(つづく)